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経営者インタビュー

経営者に聞く「荏原製作所シンガポール久保田博通社長」 トップインタビュー

ASEAN経営者インタビュー


(写真左から) SPEEDA ASEAN CEO 内藤靖統、荏原製作所シンガポール 久保田博通社長

「経営者に聞く」インタビューシリーズ

SPEEDA ASEANでは、ASEAN市場で挑戦している皆様を、経済情報とコミュニティ作りを通してご支援しています。
「経営者に聞く」インタビューシリーズでは、ASEAN地域で事業展開する日系企業の代表者の方々に、ご自身の経営哲学や信念、海外事業経営の醍醐味(挑戦の難しさと面白さ)をお伺いし、ご本人と会社の魅力を読者の方々にお届けする企画です。

今回は、SPEEDA ASEAN CEOの内藤靖統が、Ebara Engineering Singapore Pte Ltd Managing Directorの久保田博通氏にお話しを伺ってきました。

シンガポールにおける事業の位置づけ

内藤:まず、荏原製作所の事業概要およびシンガポール拠点の位置づけについて教えてください。

久保田:荏原製作所では、カンパニー制度をとっており、祖業であるポンプ事業、半導体などの精密機械事業などの事業別のカンパニーに分かれています。

世界全体としては、ポンプを含む風水力事業がおよそ3,000億円超、精密・電子事業が約2,000億円弱くらいの売上規模感です。私は風水力事業のシンガポールの責任者として2023年1月に着任しています。

ポンプについて説明しますと、水が関係しているあらゆる施設や設備では、ポンプ無しでは何もできません。流体を動かし、流していくためには必ずポンプが必要ですから、生活関連の水供給処理システムから製造ラインのプロセスポンプまで、幅広く展開し当地の社会インフラを支えています。

みなさんが飲み水を飲めるように、浄水施設の水を送り出すポンプもそうですし、工場などで産業廃棄用水を循環・排水・処理させるためのポンプも重要な役割を担っています。

内藤:シンガポール拠点からの地域的なカバレッジとポンプ事業についてもう少し詳しく教えてください。

久保田:シンガポール拠点では、シンガポールに加えてバングラデシュとスリランカでの事業開発を所管しています。東南アジアの他の国には、それぞれ現地法人で製造及び営業拠点があり責任者がいますので、私はこの3か国に注力している状況です。

シンガポールでは、祖業であるポンプ事業は、マスの取り合いの側面もあって成長率を大きく伸ばすのが難しい状況が続いている一方、半導体業界にかかわる精密事業は飛躍的に成長しています。

私は北米事業での売上拡大ミッションに二年間携わり、本年から当地における風水力事業の成長角度を上げるミッションを持って赴任してきました。

内藤:後にご経歴を詳しくお伺いしますが、荏原製作所に入社されたのは最近なのですね。

久保田:2019年4月に転職してきたばかりです。前職以前のキャリアでの複数国での事業の立上げの経験を買われて参画していますので、今までとは異なる売上規模を実現させるための打ち手を、スピード感をもって実現していく任務を背負っています。

海外30年 各地域で学んだビジネスのやり方

内藤:では一度、過去のご経歴を振り返りさせていただきながら、現在地までつなげていきましょうか。もともと国外でのご勤務が長かったのでしょうか。

1)新卒で松茸ハンター

久保田:91年に新卒入社した食品商社から海外畑でしたね。松茸が人工栽培できないことはご存じでしょうか。人工栽培できないために、地球上で天然の松茸産地を見つけ出してそこから日本に輸出する任務にあたりました。

内藤:日本以外では松茸を食べる習慣もないですよね。

久保田:実際は、松茸を食べるのは日本と韓国ぐらいでしたね、当時は。私は、タイ、ラオス、ミャンマー国境の「ゴールデン・トライアングル」地域で松茸産地を見つけて開発して、そこから日本への輸出ルート構築までを担当していました。

松茸は生きているので鮮度が命。採取してから48時間以内に中央卸売市場のセリ場に届ける必要があります。現地で採取したものをチェンライ、チェンマイ、バンコクと通って日本まで空輸して市場に並べるのです。
当初は、原価+送料込みで1キロ当たり800円程度の商品を約1万円で卸すので、利幅がかなり大きなビジネスでした。それを毎回10~15トン、シーズン時期の4カ月に集中して。

内藤:ゴールデン・トライアングルというと、麻薬の密売のイメージがあります。危険だったのでは?

久保田:ええ、本当に危険と隣り合わせでした。93年当時は、ミャンマー国軍と現地マフィアが銃撃戦をしていたり、山賊がいるようなところでした。その一方で、48時間以内に届けないと商品価値がなくなってしまう。銃撃戦の合間を縫って、まさに命がけの運搬でした。

当時は他国のルートに散らばった第一線の開発担当者が定期的にマカオに集合して、生存確認と休息をとっていました。携帯電話もない時代ですから、生存確認は現地集合するしかなかったですね(笑)。

私含めて新卒で採用されたのは、ラグビー、アメフト、空手などの体育会系出身メンバーばかりでした。同期はみんな、上の者の指示を良く聞いて、やり切る力があって、頑丈な奴らばっかりで。

ただ、数年やっていると、さすがに退職するメンバーも出てきて。私も4年間やり遂げたところで、転職を決意します。

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