経営者インタビュー
経営者に聞く「日本M&Aセンター海外事業部ASEAN統括 尾島悠介氏」トップインタビュー
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日本M&Aセンター海外拠点立ち上げの苦労
尾島氏:日本M&Aセンターに転職してからは、非常に苦労しました。商社時代は、会社の看板や既存のネットワークがあったからこそインドネシアでもビジネスができていたのだと痛感しました。M&A業界に転身し、海外事業の立ち上げメンバーとして参画した当初は、たった2名で窓もない最も安い部屋を借り、シンガポールオフィスを立ち上げました。しかし、現地での日本M&Aセンターの知名度はゼロ。社名に「日本」と入っていることで、ローカル企業からはドメスティックな印象を持たれ、信用を得るのにも時間がかかりました。さらに、マレーシア拠点も私一人で立ち上げ、とにかくゼロからのスタートアップ状態でした。
営業に関しても、日本本社では大手金融機関や会計事務所とのネットワークがあり、案件が自然と入ってきますが、東南アジアでは全く異なります。自ら営業をかけ、ネットワークを築く必要があり、その構築には大変な苦労がありました。M&A案件では、IM(案件概要書)を作成するのが基本ですが、当初は私ともう一人の日本人スタッフのみで、ローカルメンバーもいませんでした。現地企業から十分な情報を得ることができず、本来40〜50ページに及ぶべき概要書が、わずか1枚程度の情報しかない状態で日本の買い手に提案しなければならず、なかなか成果につながりませんでした。
さらに、ローカルスタッフの採用も苦戦しました。シンガポールでは比較的スムーズに採用できましたが、マレーシアではそもそもM&Aアドバイザーという職種がほとんど存在していません。仮に存在しても、投資銀行クラスの超エリートが多く、我々が求める「泥臭く、中小企業のオーナーと直接コミュニケーションが取れる人材」とは異なっていました。ようやく採用できても、教育制度が整っていないため、OJTを自分たちで構築し、また、自ら人事制度やインセンティブ設計を立案するなど試行錯誤を繰り返しました。
最も苦労したのは資金繰りです。マレーシアもシンガポールも最低限の資本金は本社から提供されましたが、それ以外の運営資金は自分たちで捻出する必要がありました。特に、自分が給与を支払う立場になったことで、責任感と意識が180度変わりました。我々のビジネスモデルは、毎月の固定収益がなく、案件が成功した際にまとめて報酬が支払われる仕組みです。そのため、キャッシュフローが安定せず、私自身の給与も数カ月遅らせて過ごしたこともありました。
そして、極めつけは2020年のコロナ禍です。3月頃から国境が封鎖され、進行中だった案件がすべて消滅しました。これまで積み上げてきたものが一瞬でなくなる状況に直面し、これまで以上に大きな試練を迎えることとなりました。
武藤:コロナ禍はマレーシアにいらっしゃったのですか?
尾島氏:いえ、その時はまだシンガポールにいました。2020年3月頃に国境が閉鎖され、案件もほとんどなくなり、時間ができたので本を執筆(署名:ASEAN M&A時代の幕開け:中堅中小企業の成長戦略を描く)していました。そんなコロナ禍で成約した「伝説の案件」についてお話ししましょう。
ちょうど2020年の夏頃、大阪の中小企業がマレーシアの製造業のM&A案件に興味を示しました。しかし、当時の状況は非常に特殊で、私はシンガポール、買い手は日本、売り手はマレーシアと、関係者がそれぞれ異なる国にいました。さらに、弊社のマレーシア拠点には1人だけスタッフがいましたが、彼女はまだM&Aの知識がない状態。それでも、現地でのサポートを全て任せることにしました。
今でこそオンラインミーティングは当たり前になりましたが、当時はコロナの影響でZoom会議が急速に普及し始めた時期でした。私たちはほぼ毎日Zoomで会議を重ね、マレーシアのスタッフには売り手の工場の生産ラインや機械の動画を撮影してもらい、案件の詳細を共有しました。そして、最初から最後まで完全リモートでM&Aを成立させることに成功しました。いわゆる「リモートバーチャルM&A」として、前例のない形での成約となり、非常に印象深い案件となりました。
その後、2021年後半になってようやく国境が開き、マレーシアへの渡航が可能になりました。そこからは順調に事業が成長し、マレーシア市場は右肩上がりで伸び続けています。2022年はシンガポールの業績が特に好調で、翌年やや減速したものの、昨年再び回復。今年はさらに力を入れ、さらなる成長を目指して取り組んでいく予定です。